怒りと写真


 先日、国内外のドキュメンタリー写真家を検索していて、ひとつ気づいたことがありました。怒りをドキュメンタリー写真のテーマとして遠慮なく扱うかどうかが、けっこう明確に分かれるんですね。

 もともと報道なんかでも欧米と日本では、扱う感情やショックの強さが全然違います。
 欧米の報道写真家の中には「安穏と暮らしている奴らに、現場でどんな酷いことが起きているか、叩きつけて目を覚まさせる」と明言している人もいるくらいで、どこかで起きたことを「知らせる」と言葉にすれば同じでも、その内容というか精神性がだいぶ違うのだなと思います。

 日本の場合、ショックを扱うのは道楽的な面が強く、いわばサブカルの領域に属していることが多く、知らしめるためというよりも露悪的に使って撮影者の特異性を際立たせるためにやることが多く、報道での扱いとは様相が違う点も留意すべきことと思います。

 どちらにせよ、日本では写真が「社会、個人にとって必要不可欠なもの」という扱いではなく、人生のひとときを彩るちょっとした飾り、という傾向が強く、それはまるで男女間における恋愛の扱いの違いのようです。

 写真を撮る人間としてそれに対して不満といえば不満なのですが、そもそも日本人は文化をそうやって扱うことで社会を成立させている民族であり、私は自分が日本人であることに対して不満があるわけではありませんから、そういうものと認識した上で、出来ることをやっていくしかありません。

写真と音楽

 わたくし若い頃はギターを弾いておりまして、日米であまりにも市場が違うもんですから、おかしいなあ俺はこれだけギターが弾けるのに、社会的には全くどうにもなりようがない、じゃあせっかくだからやめる前に本場を見てこよう、というので、本当にギター一本担いで辞書も持たずに渡米してみたところ、音楽の捉えられ方が根本的に違うのを目の当たりにして「やっぱり!」という経験をしました。

 要は音楽をどういうものと考えているのか、音楽に社会や個人が何を期待するのか、というのが根本的に違うんですね。これは個人的には優劣を感じてしまうところですが、誰かを責めれば解決する問題ではありません。

 音楽でそういった「それをどういうものと捉えるのか」の根本的な違いを経験してから写真の世界に転じたおかげで、社会や個人が写真に何を求めるのか、その前段階として写真を一体どういうものだと捉えているかの違いについて、国や地域をまたぐことで扱いがまったく違ったものであることについて、早くから感じるところがありました。

 日本人にとって写真は、何かのついでに思い出して生活を彩るものであって、写真一枚でガーン! と衝撃を受けて人生が変わっちゃう、みたいなことはそうそうない、あるにはあるのだけどその割合というか度合いが低い国民性なのだろうな、という風に思います。

 違う表現をするなら、写真に対して自分を快適にすることだけを求める傾向が強いので、写真といえば営業写真テイストのハッピーハッピーなものが多く、アート写真という呼び名になっているものであっても、一般には不快な表現をするものではなく、ちゃかちゃかしていて目に心地よい表現のものが好まれます。

ホワイトウォッシュ

 これは報道やドキュメンタリーについても同じ傾向がいえるようです。

 私自身、自律神経がおかしくなってからは誰かが怒っている映像なんかを見ると、それだけでしんどくなってしまうので見たくないなあ、と思うことが増えてしまい、実際に自分が暮らす界隈と遠く離れた場所で何が起きているのか、誰が悪いことをして、誰がどんな酷い目に遭っているのか、というのを映像や写真で見たくない気持ちが強くなってしまっています。

 反面、弱い人間が早めに淘汰される社会では、全くそういうものに対する忌避感がなく、ショッキングな映像がどんどん流れます。中国から流れてくる動画や写真は酷いものが多く、あれは自律神経が強い人しか生き残れない社会だからだなあ、と思います。

 日本人で日本人を相手にしているドキュメンタリー写真家と、生ける伝説スティーブ・マッカリー先生を始めとする欧米のドキュメンタリー写真家の違いもそこなのかなと思います。日本人ドキュメンタリー写真家は日本人の疲れた自律神経に優しい表現を心がけているように見えます。

 最近わたくし、現実から不条理を抜いてきれいな写真に仕立て上げることをホワイトウォッシュと呼んでおりまして、自分がホワイトウォッシュするべきかどうか、その流れに加担するべきか否かを検討する段階にぼちぼち入って来ているなと感じます。

「ありのまま」が難しいんですわ

欧米ドキュメンタリー写真の当事者も

 スティーブ・マッカリー先生は以前、写真にPhotoshop加工をしていたのが知られることで軽く炎上したことがあるのですが、その件についてマグナムの同僚であるPeter van Agtmaelさんという方が声明を発表されています。

http://japancamera.org/mccurry-update/
(検索で知ったこちらのJapancamera.orgさん、良い記事が沢山ありますね。今回もコメントの翻訳を紹介させていただいて大変助かりました。)

 Agtmaelさんによると、たとえばアラブの人たちは難民として報道されることで常に被害者という扱いになっているが、その被害者という扱いは情報を作る側の方向付けによるもので……というお話でして、ストレートに見える表現であっても、撮る側報じる側の意図によってネジ曲がっちゃうよ、という主旨です。

 そうであれば、ホワイトウォッシュされた、臭いを感じることのない日本人ドキュメンタリー写真もアリといえばアリなのかなあ、という気がしてきます。
 欧米の人たちは欧米の人たちで、日本で例えるならNHKが作る現実以上に悲惨なドキュメンタリー映像を見て「楽しむ」性質を持っているということであり、そのラインで突き詰めていくと、戦場を撮ること自体、どれだけ表現として優れていようが露悪的でないと断言出来る人はいません。
 結局は写真をどういう目的で作り、誰に見せてどういう気持ちになってもらいたいかでしょうね。すべてひと目に晒されるものは見世物の要素を孕んでおり、そこに対してどれだけ自覚であれるかどうかの問題と思います。
 写真は技術が一定に達すると、どうしても見せたいように見せる撮り方が出来るようになってしまいますし、そうしなくては表現として人の目に留まりません。

 このジャーナルブログで扱う情報については、独立メディアでやっていることであり、報道と冠しているわけでもないので好きにやってしまえば良いことではあるのですが、少なくとも現時点では「傾斜していない視線」を大事に、不条理は不条理としてそのまま残る撮り方がしたいなあ、という風に思います。

 それではまた。


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