セントレアに見られている


 前回の「スナッパーにとっての愛知県常滑市」に掲載の写真、観光誘致写真として見ると絶景系の撮り方をしていないので地味極まりないものだったが、スナップ趣味はまず撮っている人間が楽しめるかどうかが大事、と考えるとあれで良い。健康のための空手みたいなものだ。今日の記事はその続きのようなものである。

 世の中にはランドマークという考え方がある。象徴的で印象に残りやすい建造物が各都市ごとに「この都市といえばこれ」と認知されており、たいがいは尖った建物である。
 たとえば東京なら東京タワーもしくはスカイツリー、名古屋ならテレビ塔が一般的だ。ゆるキャラのようにきちんと設定されるものではないので人によりランドマークとして認識されるものが違ったりもするが、基本的に平べったい建物がランドマークと目されることはない。塔であれ城であれ、何かしら尖ったものである。常滑市の場合、やはり中部国際空港・セントレアの管制塔ということになるだろう。

 なにせ常滑市内で写真を撮っていると、少し見晴らしの良いところであればすぐに見つけることが出来る。むしろあちこちの展望台もセントレアの方が見られるように作ってあったりする。

 だから極論すれば「常滑ではどこでもセントレアを見ることが出来る」のだが、それを捻ると、「どこにいてもセントレアに見られている」に転じる。ある日これに気づいて少し面白いと思った。

見られている

 なにせランドマークが管制塔である。

 東ドイツのようなびっちりした制服を着て頭を七三分けにした管制官が大きな双眼鏡を持ち、常滑市内を見渡して市民一人ひとりの罪を見つけ、閻魔帳に記録していく。「いつもお前を見ているぞ」と、いかにもスティーブン・キング的である。ちなみに管制官のイメージは私の中ではスター・ウォーズのエピソード5でダースベイダーにフォースによって縊り殺されるニーダ艦長のような感じだ。

 いつも見張られている、というのはジョージ・カーリンという有名な無神論者のコメディアンがキリスト教について語った「宗教は人々に『空に見えない人が住んでいて、彼はあなたがやることを毎日、毎分見張っている。そしてその透明な男は10のあなたにしてほしくないことのリストを持っている』と信じ込ませる」という言葉に似ているようで面白い。

 全知全能の筈が達成できないことが多々あるのを、人が罪を犯したからだと論理をすり替えることに成功し、人に生まれながらにして罪を背負わせるキリスト教的価値観ではこの「常に監視されている」という後ろめたい世界観が社会を成立させる上で必要だったのだろう。
 何であれ残ったものはその社会にとって必要だったのだ、と結果論で捉えてみると、そうでもしなければ統制出来ない人民だったということなのだろうと思う。国が違えば宗教が違うように、そもそも地域ごとに人々の性向は違うのだ。ハードなルールがある時代、地域は、そうでないと権力が容易に覆されたのだろう。

見る/見られる

 常滑のあちこちでセントレアの管制塔が見えるからといって、主体客体を逆転して自分が見られていると考えるのは小説の主題としては面白いかもしれないが実際にそう考えていたらパラノイアである。

 しかし見る者と見られる者、どちらが主体でどちらが客体なのかは芸事をやっていると常に頭を悩ませる事柄のひとつだし、セントレアの管制塔のように目立つもの、目立ってしまうものを構図上どう処理するかは、現実を写し取る写真にとって大きな命題である。

 普通は「そこにあるから写ってしまう」と考えるが、写真技術を学んでいくうちに少しずつこちらの都合の良いように捻じ曲げられる余地もあることが分かってくる。肉眼でどう見えるかとカメラを通じてどう見せるかのギャップに写真技術が潜んでいるのだ。


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