言語化脳を作る


 何かを見たり体験した時に、それを言語化して記憶する癖がだんだんとついてきた。恐らく脳が器質的に変化しているのだろう。

 音楽家を解剖すると素人でもひと目で分かるくらい脳と腕を繋ぐ神経が太いのだそうだ。勤勉でないと演奏がおぼつかないスラッシュメタル好きの元アマチュアバンドマンとしては、普段から頭に留め置いている考えに実際の行為を掛け算して熟練を作るのをよく知っているから、言語に関することでも「そうしよう」と常に考えているだけで脳は変化していくのだろうと根拠なく確信している。

 つい最近まで、何を見ても、ただサッとカメラを出して記録するばかりだった。それではあちこち巡って図鑑を作っているようなものである。もちろん現実の三次元世界を二次元の写真に落とし込むにあたってあれこれ考えることはあるのだが、仕事であり趣味であり、またデジタルであることも手伝って異様な回数の撮影を繰り返しているおかげで、言語野を介さず二次元化が出来てしまう。

 ひたすらに三次元を二次元化する、言語を廃した三昧の状態が私の写真趣味にとっていちばん愛すべき状態なのは間違いないが、それだけでは鑑賞する人に対して投げかける写真にならない。もちろん趣味としては今後も「見る→撮る」を直結するような取り散らかし遊びを継続するつもりでいるが、写真も文章も売り物にするならそれでは済まないのだ。まかないを客に出すようなことは許されないのである。

 どう済まないかといえば、見たもの聞いたもの、体験したことについて評論を加えるように、主観的立場から独自の見解を言葉で説明しなければならない。そうして初めて「お客さん」の前にどうぞ、と出すべきものに仕上がる。

 例えば電車に乗ったとする。
 事実としては何かしらの手段で駅まで出て、そこから電車に乗り、一定の時間を車内で過ごした後に乗り換えなり目的地に着くなりで電車を降りる。その一連の流れを、単に駅に行った、電車に乗った、降りた、と並べるだけでは作品にならないのである。

 カメラマン仕事であれば、どの電車にどう乗り、どこを強調してどんなボリュームで最終的な納品物にするかはディレクターが勝手に考えるからカメラマンは言われるままに撮れば良い。撮れば良いといっても誰でも撮れるわけではないから仕事として成立するのだが、カメラマンは撮影の中身に集中し、スペシャリストとして腕を振るえば良いのであり、それぞれに意味をつけるのは仕事ではない。

 もし作品として電車に乗る行為を文章にするのであれば、例えば名鉄の赤い電車から幼少期の出来事を想起するであるとか、名古屋駅の地下はなぜ独特の臭いがするのだろうとか、ホームの立ち食いそば屋で500円の胡散臭い天ぷらそばをよく食ったなどと話を膨らませつつ、その乗車体験が自分に何をもたらしたかを読者に示さなければならない。

 つまり先述のとおり主観を独自の言葉で表現しなければならないのだ。これが容易ではない。テクニカルライティングの仕事は、カメラの機能説明であれば編集者が驚くほどのスピードで出来るが、「私にとっての名鉄電車」で書けと言われると書くスピードは数十分の1まで低下してしまうし、作業に取り掛かるまで億劫だし、その億劫さは自分の脳内のあれこれを人が見られるところに晒す恐さが原因でもある。

 実際書き始めてみても、そもそも電車が赤かろうと黄色かろうと本当はどうでも良いのに、そこから何かひねり出そうとしてみたりと普段は使わない脳の部位を使うので疲れる。だがこれもトレーニングである。名鉄の赤い電車を見て連想することはないか、想起される感情は、過去の記憶はないか。

 それを仕事としてやるのであれば、時には小さな体験を針小棒大にする必要に迫られることもあるかもしれない。それをどこまで許容するか、どこからが嘘になってしまうのかの判断は、写真でいえばレタッチと同じなのだろう。明暗・色調補正までは報道でも認められているが、あったものを消すのは? なかったものを足すのは? と作為の度合いが高まるほど場によっては禁じ手になっていく。

 見る→撮るが直結してしまっている人間としては、何かを見る度に自分に対して「どう? どう感じた?」と問いかけねばならず、まどろっこしいことこの上ないのだが、他人の作ったものでいえば、解釈の加わっていないただの事実を見ても私自身たしかに楽しくない。

 自分の純粋な旅の記録は、そうとは知れず記憶している「この時はこんなだったな」という写真外の記憶とリンクして初めて楽しめるものであって、その記憶がない他者にただの記録写真を見せても面白いものではないのだ。それは赤の他人の婚礼写真を見るようなものである。

 しかもここまでの話はドキュメンタリーやルポの範囲であって、写真も文章も現実に存在するものしか使ってはいけないわけではない。つまり100%嘘で構成していても喜ぶ人がいればそれはエンタメとして称賛されるのである。事実に依拠する必要性を、想像力の枯渇を誤魔化すための方便として使ってはいけないのかもしれない。もう少し頭を柔らかくしなければ、と思う。


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