ミドルエイジ・クライシスがやってきた


 40代に入って以来、顕著になにかに感動することがなくなった。ドラマや映画など観ていても、「よく出来ているな」と出来栄えに感心することはあっても没入することはほとんどない。音楽であれ文章であれ、なにかにつけてそうだ。

 ここ数週間は急に寒くなったのもあり、毎日がただ恐ろしい速さで流れていくだけで灰色だ。何をしてもどろっと膜がかかったように反応が鈍いのである。酒を飲む人間だったらどんどん量が増えていたことだろう。

 ひっくるめてしまえばこれは恐らく中年の危機、ミドルエイジ・クライシスというやつなのだろうと思う。ドラマ「Numbers」では主人公の兄が突然大型バイクを買って乗り回したり、宗教に目覚めたりしていたが、私も宗教にこそ目覚めないもののバイクに乗りたくてしょうがない。免許は二輪であればすべての排気量に対応しているので選択の幅は広い。

砂を噛むような毎日、というほどではないものの刺激が欲しいところ。

 それまでの自分の人生を振り返り、これで良いのだろうかと考えてしまうのがミドルエイジ・クライシスだそうだ。脳が麻薬物質を出しにくくなり、鬱になりやすくなるなど肉体の不調が表出しやすいお年頃である。

 だから「最後の青春!」とばかりに女性関係で問題を起こす人も多いと聞く。体の自由が利くうちに好きなことをしておきたいということなのだろう。一匹の雄の個体として気持ちは分かる。今後の人生の中で、今がラストチャンスかもしれないのだ。

 実際、中島らもが日の出通り商店街いきいきデーという短編で描いていたように、中年の男は生物学的にはもう「要らない」ものだという実感がある。
 これからの人生は余剰であって必要最低限に相当する部分ではないのだ。引き算した残りである。ゴーギャンのようにこれから何か成すことも運と努力があれば可能かもしれないが、別に何もせず、電池が切れるまで惰性で流しても良いような気がしてくる。

 私は早めに体を壊しているが、普通の男性であればちょうどこの年齢で体力が落ちてきて気力も萎え、新たに何かを始める気にもならないことだろう。
 そう、気力はイコールで体力なのである。別々のパラメーターが存在しているのではなく、体力がすなわち気力であり、その逆も真なのだ。体力が衰え始めたのを実感するからこそ、最後にひと暴れしてやろうと思うに違いない。

 私はむしろコロナ入り以降長く続いていた自律神経の不調が、常滑に越してきたおかげで少しずつ緩和しているので、ここらでどこかのバンドにサイドギターで入れてもらって、より体を使うようにして健康を取り戻したいと思う部分もあるが、そうはいっても長期的には体力が下降基調で推移するのは間違いなく、バイクに乗るのも今のうちかもしれないと思う。

 しかしまあ、人が何に駆られてバイクに乗るのかは様々だし理由付けは自由だが、自分の眼の前から走り去る青春の少なくなった後ろ髪をつかまえるために乗る、というのでは何だか違う気がしている。喪った何かは後から取り戻そうとしても、きっと違う形になってしまっている。

 それはそれとして、これはこれとして穏やかに楽しめるのが一番良いのだろう。だから若い人たちは、いま乗るバイク、いま撮る写真が後からどれだけ取り戻そうと思っても二度と再現できないものであることを忘れないで欲しい。少なくともその人にとってかけがえのない思い出になるはずだ。


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