写真は芸術か便利ツールか


 写真という芸事を嗜み、様々な人達と交流していると、写真はつくづく芸術と便利な道具の間を行き来する不思議なものだと思う。

 写真や撮影行為がまとめて芸術扱いされることもあれば、芸術とは全く関係のない宣伝用のツールという扱いをされることもあるし、スマホで撮ったものも含めてしまえば著作権がまるで働かないただの記録という扱いをされることもある。私自身、写真を自分のためだけに撮ることもあるし、何かを広めたい人のために撮ることもある。このぬえのように掴みどころがないのが写真の面白さの一つである。

 たとえば芸術家がインスタレーションをしているところを撮ると、それは広報用の写真なのか、撮影そのものが芸術活動なのか、撮った写真は芸術作品なのか広報用に使う広告写真なのか。どこをどう切り取ってどう呼んでも不正解ということはないが、撮影スキルが一定以上身に付き、写真の出口設定も周辺のあれこれ含め見当がつくようになってくると、撮る時点でインスタレーションをしている芸術家の広報用の商業写真を撮っているのか、インスタレーションする芸術家を素材として利用した芸術作品としての写真を撮っているのか、明確に分かれるようになってくる。

 下手をすると芸術家のサイドに「写真は芸術家にとって自己を広報するためのツールである」という固定観念があり、撮られた写真が撮った人の著作物であることはギリギリ認めるが、写真は撮る人間も含め便利ツールなので芸術家という扱いは認めない、という差別的な態度に繋がったりする。

 事実私自身、フリーランスになった直後にアーティスト界隈に出入りしていたことがあるのだが、彼らが無意識のうちに写真を差別して「用のもの」つまり芸術ではない便利ツール扱いしてしまうのを経験している。下手をすると都合の良いタイミングで写真を芸術扱いしたり、便利ツール扱いしたりを切り替える。しかも当人たちは無自覚なのだ。

 なるほど社会というのは差別に現れるものである。その社会がどういう構造を持っているかが、当該社会の構成員が何を差別するかによって説明されてしまう。

 全体的に強く左傾している彼らが言う「差別はされた側が感じたら差別」という論理で行くのであれば、そこで写真を撮っていた私自身が差別されていると感じた以上それは差別なのだが、彼ら芸術家にとっては撮影などの活動も含め、撮る人間がよほど強く自らを芸術写真家であることを主張し、直接何かの役に立たない写真を並べて見せることで初めて「こいつは芸術家だ」ということになるのだろうと思う。

 インスタレーションを撮ってみたら良い感じに用を満たせそうなので広報目的で使っちゃおう、というのも別に悪いことではないし、実際よくあることなのだが、それは芸術的アプローチではない。もっとも、私が交流していたのは日本の芸術家のごく一部の話であり、欧米の芸術家たちはもっと用に近づいている可能性が高そうだとは思う。

 社会の側が芸術をコミュニケーションの道具の一つとして使いこなしているから、より商業的な、より用を為す芸術というのも多々ある。

用を為す

 老子が「有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり」、つまり何かを為すには有用なものだけではなく無用なものも大事なんだよ、みたいなことを言っており、芸術家たちが役に立たないことを志向している場では下世話な意味で有為に役に立ってしまう写真が「それは芸術じゃない」という差別の対象になりかねないというのは面白い。

 私自身はその有用と無用の境界をひょいひょい跨いでしまえる写真の特性がたいへん気に入っている。

 商業的に使えば、何かを売りたい人、広めたい人の役に立てる。役に立つならそれは稼ぎになるし、自分がその技術をもって純粋に記録したいと思えば美しい記録を作ることもできる。芸術作品を志向するのも自由だ。また写真は被写体がなければ成立しないが故に、商業の場にも芸術の場にも出入りすることが自由だ。

 私はいつも職業カメラマン志向の若者に「カメラマン仕事はお金をもらってする社会科見学」と言っているが、それは写真が場を問わず情報を拡散させるために有用と見なされているからこそである。

 アマチュアが相手であっても、無用か有用かどちらを志向するかで乱暴に分けるのであれば明確に有用な写真に向けて指導している。それはなぜかといえば、無用であることを志向させる指導は教える側も教わる側もすぐに指針を見失ってしまうからだ。

 写真の添削ひとつとっても、無用を志向すれば残るのはほとんど好みでしかない。どれだけ下手な写真で意図が反映されないどころか意図そのものが働いていない偶然の写真であっても、意味を見出そうとすればいくらでも見いだせる。そこに価値を持っても撮る人間の自意識を肥大させるだけで社会にとって益がない。

 社会の視点でいえば、まともに撮れる人間が多ければ多いほどその時代、その地域の記録が残るし、それは郷土の歴史研究家を育成するのに近い取り組みではないだろうかと思う。

 また2024年元旦に起きた地震に関連して、報道と写真のあり方について感じるところがあったので、それはまた別の記事で書こう。


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