これからなくなってしまうものの記録

 様々な職業に特有の定型句があるように、写真の世界、特に営業写真の界隈にも定型句がある。それは「これからの人生で今日が一番若い」というものだ。さあだから恥ずかしがっていないで写真を撮ろう、と誘うための言葉である。

 写真はこの定型句の示すように、これから劣化していくもの、これからなくなるものを記録するのに長けたメディアであり、写真を趣味にするということは懐古主義のコレクターにかなり近い感性を持っているといえるだろう。

 写真に写っているのは常に古いものだ。撮影時点より新しいものが写ることは原理的にありえない。被写体に当たって跳ね返ってきた光を記録するのだから、撮影の時点ですら被写体の状態はより先に進んでしまっており、写真には取り残された過去しか写らない。天体を観測する時と同じことが被写体とカメラの間で起きている。

 広告写真仕事を「クリエイティブ」に類するものとして仕分けしたがる人は多いが、そこに写っているのが常に過ぎ去った時間を帯びた物体の外っ面でしかないことを考えると、何を撮ろうが古色蒼然として色を失い、かさついたもののように思えてくる。

 であれば写真の本質はこれからなくなってしまうものの形を現世に繋ぎ止めておくための記憶の外部化であり、なくなってしまった時に喪失感を覚えそうなものを先に見繕って撮って寝かせておき、なくなった後で「さあどうですか懐かしいでしょう」と価値を求めるのが本質なのかもしれない。

 下手をすると、自分が写真を撮った後は実存がこの世からなくなることを期待して指をクロスして祈るやつもいるのかもしれない。自分が撮った後、花を手折って他の者が撮れなくする写真家の心理はそれと一致するものだ。
 これは絵画であっても、画家の筆致一つ一つが筆のキャンバスに至った時点で過去となり、時間も一緒に塗り込められることを考えると似たところがあるが、写真は証拠能力が高いだけにより後ろ向きに感じられる気がする。

 人物写真、特に若い女性を対象にしたものにしても、次第に色を失っていく様子を克明に記録する趣味だと思うとなんだか恐ろしいが、そういえば写真を始めると一定の人間は突然古いものが撮りたくなる。

 ツタや錆、崩れたレンガの壁や廃村、廃駅などなど、私も写真を撮り始める前は一切興味がなかった古いものにやたらと心惹かれるようになった。これは写真の持つ退廃的な側面が人の心の底から呼び覚ます情動なのだろう。不思議なものである。

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