最近ずっと写真の抽象性を追い求めている。おいそれとはいかない。
なにせ具象を突き詰めるように職業写真を撮ってきており、また写真も本質的に具象の道具である。
絵画はゼロベースで積み上げるほど具象に近づいて行くから、具象に見せる能力に加えて積み上げた時間や労力も価値として参入されるが、写真は間違えさえしなければいきなり具象100パーセントで写る。それこそが人類の夢だったのだから写真が「写ってしまう」ことは当然のことだ。

カメラ、というか写真という装置はシンセサイザーに近いところがありそうだと思う。
実存を眼の前にして、それを2次元に変換していくという意味では絵画も写真も同じだが、間に機械が入る点、とくに観客に「間に機械が入って入力と出力のラインが断たれているような気がする」また「ボタン一発で機械が大事なところまで勝手にやってくれそう」と思われがちな点が、いわゆる生楽器とシンセサイザーの捉えられ方の違いに似ているように思う。
こういうものは実際にどうであるか熱弁しても意味がない。あいつはこんなに良い奴なんだと友人のことを熱心に勧めてみても、相手の女性に当該の友人に対する恋心が芽生えなければ恋愛関係に発展しないのと一緒で、すべては受け手がどう感じるかに委ねられているのだから仕方がない。
とりあえず私としては写真で抽象するための手段をあれこれ探っている段階であるが、その先に見えてしまっている「観客にどうアプローチするか」も今から考えなければならない。これは予感というより確信だ。