価値の判断

 最近、海外ドラマを見ていても感情移入できない。大抵は揉め事があるからドラマになっているのだが、その揉め事のどちらサイドの肩も持てないのだ。それは自分が立派な中年になり、価値の判断を安易にしなくなったからに違いない。

 その延長で、写真は撮影前に撮影対象についての価値の判断をしているかどうかで二分されるような気がしてきた。実際は程度の問題なので乱暴にふたつに分けるのは難しいが、少なくともふたつの極があるような気がしている。

 わたし個人としてはドキュメンタリー志向であることが影響して、背景など含め、撮る対象の価値を先に判断して撮るようなことを避けている面がある気がする。肩入れをしない撮り方ということも出来るかもしれない。

 では何を見て撮っているのかといえば、被写体と社会の問題ではなく、純粋に写真にした時に面白いかどうかで判断している。あちこちにカメラを持って出張るのは「写真にした時に面白い状態を探すため」であり、べつに社交的だからではない。

 写真は「光を使って絵を作り、それが面白いかどうか判断する」芸事であることが根本であり、写っている対象が第三者から見て面白いかどうかは二次的な問題である。料理が美味しいかどうかと栄養学的にどうかが別の問題なのと似ている。

 つまり写真技術的な意味で面白い写真と、面白いものが写っている写真は別なのである。有名になりたいのであれば両者の合一を目指すべきであるが、わたし個人としては後者の部分はほぼどうでも良い。

 人間にとってあらゆる技術は、一定以上の反復を繰り返して深みに達すると必ず純粋技術論が立ち上がってくる。これは写真であろうが空手であろうがExcelであろうが必ずそうなる。ならねば嘘である。

 だから「何が写っている」「それが好ましいかどうか」は、純粋に写真技術を追求する限りにおいては本質ではない。それが鑑賞される段階において好ましいと思われるかどうかを先に判断して撮るのは、純粋写真技術からすればおかしな話である。

 もちろん普通は自分が撮った写真に共感してもらいたいと思うものだから、純粋写真技術に寄り過ぎることがないよう、むしろ撮影技術を利用して事前にした価値の判断が第三者の目にも明らかなよう撮るのであるが、撮る当事者はそのバランスに自覚的でなければならないだろうし、鑑賞時もこのふたつの極のどのあたりに写真がバランスを取っているのかが大きなポイントだろうと思う。

特に泥が好きということはない。

ドキュメンタリー

 別の見方をすれば、「これは良いものなのだ、世に知らしめるべきものなのだ」と先に判断してから撮るのは商業であって、ドキュメンタリー的ではない。商業とドキュメンタリーはほぼ完全に対立する考え方である。

 もちろん撮るのは人間なので、対象を好ましいと思ってしまえば好ましさが伝わるように撮ってしまうものだが、ことドキュメンタリーで撮影に取り組む場合、価値の判断を前提に置いてシャッターを切るのは危うい。それは事象よりも価値を伝えるための写真になってしまうからで、いわば偏向報道である。

 もちろんドキュメンタリー写真を撮る以上、そこに何かしらドキュメンタリーするに足る対象があることは間違いなく、それも価値の判断であることは間違いないから、価値の判断や演出性を完全なゼロにするのは不可能なのだが、少なくとも演出性に振り切るような撮り方はドキュメンタリーと呼べないだろう。

 これが商売の撮影であれば、眼の前に置かれた人や物を無条件に素晴らしいものだと思い込まないと売れる写真は撮れない。演出100%大いに結構である。わたし個人の中では仕事かそうでないかで、商業とドキュメンタリーの区分を付け、価値の判断をしてから撮るか否かの境界を設定している。

 報道も商売なのは間違いないが、「品川駅のコンコースがこんなに混んでいる」と演出を決定してから「それなら望遠のほうが圧縮されて、より人が多く見えるから」と撮影方法を決定するのは、ドキュメンタリー性が重要視される報道においては明らかに失格である。この欺瞞性に自覚的でない報道カメラマンというのは存在自体が矛盾している。

写真作品

 さて、写真作品というくくりで見てみるとどうだろうか。写真はすべてが商業写真ではないし、またすべてがドキュメタリー写真でもない。

 むしろその間を自在に行き来できることこそが写真の面白いところかもしれず、有名な写真作品を眺めて、これは価値の判断を先にして、それを鑑賞者に伝えるべく演出をして撮っているか、それとも価値の判断をできる限り事前にしないようにしているのか、考えてみるのも面白いだろう。

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