写真は機械メーカーがカメラを作っているおかげで、古い写りをするものは新規でメーカーから出てくることがまずない。自動車メーカーがわざわざ環境に悪い低馬力の車を新規で出さないのと一緒だ。
昨日OMDSが発表したOM-3などは、私がいま愛用しているEM10Mk4と比べると2~3世代新しく、かつだいぶ難しいことが出来るセンサーを搭載しており、たしかに作例を見ると「すごいなあ新しい画質だなあ」と感心する。
もしもマイクロフォーサーズ機で風景写真をやっているのであれば、OM-3であれOM-1系であれ、新しいセンサーを積んだカメラが欲しくなるだろうと思うし、使ったら使ったで最新のカメラだから操作も恐ろしく便利になっているはずだ。
特にUIなどは最新のカメラを使うと「なぜ過去のカメラはあんなにアホだったんだ」と思うくらい人間の感性にフィットするように作られている。各社血の滲むような努力をしているのである。
しかし世の中の写真愛好家たちの間には主流メーカーが主導するそうした淀みのない写真ではなく、忠実度の低い、「ちゃんと写らない」カメラやレンズを求める層もいる。結果として古いカメラやレンズに、明らかに不便と分かっていながら手を出したりする。面白いのは、いわゆるオールドレンズ愛好家の大部分は、レンズが古いこと自体に価値を見出すアナクロ趣味でないことがほとんどなのである。

機械の評価でいえば、カメラもレンズもとにかく「よく写る」ほど褒められるものなのだが、面白いもので写真という文化は肉眼で見た風景よりも明らかに劣化して記録されるのが当たり前だった時代が長く、その劣化自体をコンテクストとして捉えるものになっている。
一部の人にとっての「写真」は、ただ現実にあるものがそのままに見える形で写っているものではない。過去的な装いをまとっていることでノスタルジーを喚起し、そのことをもって初めて「写真である」と見なすのだ。
その場合、現代的な、忠実度が高い画質であるとそれは写真でないと見なされるし、であれば現代的な意味での高画質は邪魔になってしまう。優れすぎているのだ。これは薄口のアナクロ趣味なのだが、気づいている人は少ない。人に作品写真を売ろうとすると、このハードルをどうクリアするかが問題になる。フィルムカメラを手にするのは、作品らしさを付与する方策として正しい。
画質を落とすものは機械の問題に限らず、そもそも光の質が良くないと写真の画質は良くならないが、最近のカメラは一体どんなマジックを使っているのか、どうしようもない酷い光源でも平然とまともな色で写してくれるものが多い。
酷い光源も丸ごと飲み込んで見られる画質にしてしまう能力、と表現すると機械の話をしているのに情緒的過ぎるかもしれないが、エンジニアでない私からすると文字通りブラックボックスの中で起きている魔法でしかない。
最新のカメラは雪の前のようなどろどろした死にたくなるような厚い雲の下で撮っても、なんだかポジティブな気持ちで撮ったかのように変換してくれたりする。凄い能力ではあるし、仕事の際は基本的にポジティブな写真が求められるので大変ありがたいのだが、これが仕事を一歩離れると邪魔になったりする。
要は「最近のカメラ(レンズ)は写りすぎる」論であり、いかにも老害が言いそうなことではあるのだが、実際フジのように主流派の「よく写る」方向性から外れたメーカーが一部にウケることからも、国産二輪メーカーが直4エンジン一辺倒になっている時に「いや、出力が高ければ良いってもんではない」と、たとえば単気筒エンジンにノスタルジーを求める人がいるように、明瞭明快、現実よりもキラキラきれいに撮れるカメラを嫌う人は必ずいるし、写真の場合、少なくとも2025年現在においてその分布は年齢よりも文化的バックグラウンドによるもののほうが大きい。
私のように図鑑的な写真を多く見て育ってきた人間の場合、写りそのものに情緒を感じるということはあまりないように思う。
個人的な体験でいえば、自分が写真を撮り始めてしばらく後、ツァイスのレンズで撮られた写真をFlickrでまとめて見た際に驚いた。考えてみればあれが私にとって「写りそのものも写真のコンテクストなのだ」と脳に刻まれた体験だったのだが、もっと文化的な暮らしを幼い頃からしている人たちにとってはもっと身近なものなのだろう。これは色を見る能力と近いところにありそうに思う。
写真は現在そこにあるものを現代のカメラで記録するのが普通だから、写真が古い状態を味わおうと思ったらその写真を長い年月寝かせておくのが筋である。
しかし写真が面白いのは、いま撮った写真に技術的には劣った要素を付加することで即座にノスタルジーを喚起するのが、他の芸事と比べると明らかに好意的に受け止められている。
これはなんというか、ターメリックさえぶちこんでおけばすべてカレーになるみたいな乱暴な話なのだが、実際それは許容されているし、メーカー側も「正しくない」画質で撮らせることを少しずつ許容し始めている。
実際、作品として風景写真を1枚だけ撮ってフォトコンに応募するような場合は、悪いコンディションでもなんとかしてくれるカメラで撮った方がウケが良さそうな気がするが、個人の記録としての写真は、ダメだった日はダメだったように写ってくれたほうが、写真を並べた時に凹凸がよく分かって面白いのである。
それは例えば淀みであったり濁りであったりと、写真をよく見えなくするネガティブな方向に働く要因なのだが、人は時にそうした劣ったものにこそ感情が動くことがある面倒な生き物なのだ。
ここ1~2年、Kodak FZ55の売れ行きが大変良いらしい。
単純に価格が安い上、写り過ぎないことが尊ばれているらしい。なるほどあれこれ作例を漁ってみると、LOMO LC-Aを思い出すような写りで、KODAKらしくホワイトバランスがアンバー側に転びがちなだけでなく、現代の高性能カメラのように忠実に写りすぎないことまで含め「温かみのある画質」と評価されているようである。
濁り、淀みのある写真は、特に図鑑脳の私のような人間にとっては劣ったものでしかないと思われがちだが、後から振り返ってみると、その濁り、淀みにこそその時の心情のわだかまりやなにかが写っていると思えて良いものに感じるかもしれない。
結局は見る人間が見る時点で何を投影するかの問題でしかないのだが、それはそれとして許容していくのが写真の楽しみとして豊かではないのか、と思う次第である。