当ブログでレンズ作例を掲載することにした。以前から気が向くとやっていたが、今回は意識してレンズ作例を増やしている。これはこのブログのためというより、ネット上で参照できる事例を増やすつもりでやっている。
内容としてはチャートを撮るような真面目なレビューではなく、「当該機材で撮った」「ストレート寄りの素直な現像で分かりやすい」「可能な限りその機材が到達できる最善の状態を目指す」「でも欠点は正直に」という感じで、テキストはただの感想でしかないのでレビューかどうか怪しいところである。
ただこれでも、情報としてあるかないかでは大違いなので、粛々とやっていこうと思う。理由は、爾来乱立傾向にあるAI機材ブログによる検索汚染を少しでも食い止めるためだ。
AIブログ
AIにカメラやレンズの型番でテキストを出力させて、それをただ貼り付けているだけのゴミのような機材ブログ記事が大量発生している。あれは中身がないからAIおよびインターネットの悪用でしかない。
Googleは写真よりもテキストの方を重視して検索順位を決定するというので、それを悪用したものだろう。早いところGoogleもAIでその写真が一次資料かどうか判断出来るようになって序列をきちんと付けるようになってほしい。
一次資料としての作例写真であることを何よりも重要視するため、当ブログでは、手放してしまったレンズについては仕方がないが、可能な限りレンズのブツ撮りもして掲載する。これは「実際にこの機材が手元にある(あった)のだぞ」という証明のためだ。
ボディーとセットでこんなにファッショナブルに、という方向ではないし、サイズ感を見てもらうためのものでもない。結果としてそういう方向で役に立てる可能性も十分にあるが、メインは証明のためである。
もちろん、機材を撮ったブツ写真ですら、近い将来、見分けがつかないくらい正確なもののAI生成が可能になってしまうだろうが、あとは個人の信頼の問題だろうと思う。逆にいえばそうなる前に信頼関係を築いておかないといけない。
考えてみれば写真そのものも合成が問題になるくらい、その写真の裏に実存があるからこそ価値を生む場合が多い。
合成問題
つい先日、SNS上で合成を合成といわず、実在の風景と誤認させるようなキャプションを付けて投稿した画像が炎上した。それ自体はこれまでもあっただろうし、これからもあるだろうことで珍しくない。
ネット上の反応も典型的というか定型化しつつあり、一方に合成に対する生理的な嫌悪感に近い反応があり、もう片方に「合成でもなんでもカッコ良ければ良いじゃん」という立場から時に攻撃的に反応する者たちがいる。
わたし個人としてはどちらの気持ちも分かるし、要は「実在の風景であるかのようにキャプションを付けたのがまずいでしょ」というだけの話なのだが、責める側も守る側も議論を求めているわけではなく、ただ感情をぶつける対象を探しているだけだったりするから、言い争いが激化しやすい。
もちろんそれも別の派手な話題が飛び出してくるまでの短期のことであるが、私としては、合成問題の核は実存との紐付き以外にないだろうと思うし、そこを中心に議論したほうが整理されて良いだろうと考えている。
実存との紐付き
特に記録性を求めるジャンルほど、写真は写っている実存とペアでの評価になる。
報道写真で合成が一切ご法度なのは、写真に写っている酷い「こと」が本当にあったことを見る人が求めるからである。写真に写っているような酷い「こと」があった場に居合わせたカメラマンの「居合わせる能力」まで込みで写真が評価されるのだから、ただ同じように酷い感じの絵面をAIに生成させても無価値なのだ。
これはつまり、実存があるからこそ写真に価値が生まれているといえる。これに反論できる人はいないだろう。美人の写真の評価は、その美人が実在することをもって補強されている。だから実は写真だけで純粋に評価されるということは、ほとんどない。
また逆に、純粋に芸術として突き詰める場合、作品としての価値だけを求めるのであれば、あえて実存と切り離したくなる気持ちも分かる。実存とは関係なく、純粋に作品として美的に評価して欲しいという欲求には、ほとんどの人間が理解を示すだろうと思う。
実際は美術世界であっても、デュシャンの泉はただ造形として美しい作品だという扱いではなく、「既製品の便器を!? 作品として!?」というコンテクストの面白さ、エポックメイキングさ加減が評価に繋がっており、実存の便器の「便器としての」存在と評価が強烈に紐づいているから、立体芸術であろうが写真であろうが、実存と全く紐付きのない評価というのはほとんどありえないのではないかと思うのだが、とりあえず合成は悪くない、と擁護するためにその立場を採る気持ちは分からないでもない。
しかし、実存と紐づかない、ただ見た目だけかっこよくした作品は、私の定義では写真ではない。
写真が写真たり得るには、そこに写っている実存とセットであること、もっといえば写真のデータやプリントそのものではなく、写っている実存との紐づきにこそ価値があると考える。その誠実さを最低限担保していないものは、ビジュアルアートとしての評価とは全く別に、写真として評価しようがない。
特に東京カメラ部界隈は、東京カメラ部株式会社が直接そう指導しているわけではないのは理解できるものの、自己顕示の鬼のようになった者たちが、実存を敬意なく扱って独善的に振る舞う事例が多く、これは私の実存との紐付きを重視する姿勢と相反する。被写体はただ光子を都合よく跳ねかさせるための物体ではないのだ。
合成を嫌う人たちのうち、何割かは、この実存に対する敬意のなさを敏感に感じ取っていると思うし、その批判は都合の良い合成を、アートの名のもとにためらいなくする人々に理解されることはないだろう。
ただ、こういったことはどこに正解があるわけでもない。
デジタルは写真でないと断言する頑迷な老人がいても良いのと同様、実存との紐づきが強いものだけが写真である、言い換えれば実存との紐付きを表現したものが写真であるという定義で私は行くというだけで、各自好きにやれば良いのである。

レンズ作例も、だから立場としてはドキュメンタリーに近いといえるだろう。記事のタイトルに銘打っている機材で撮った、という機材の実存との紐付きが作例写真になければ、それはただの写真であって機材の作例写真ではない。合成問題についても同じように、実存との紐付きをベースで考えれば単純だと思う。
写真と、その裏の実存との関係は、人間社会の因果と同じように、糾える縄のような複雑さを持っている。その複雑さを感じるからこそ、押せば写るオートマチックな機械で写ってしまう写真にも意味が、価値が生まれてくるのではないだろうか。そうでなければ生成AIとの違いがないではないか。