写真をやらない人にウケたいかどうか


 おはようございます。

 そういえば私、以前からFacebookに登録してありまして、そっちではリアルで繋がりのある人とだけやり取りしております。

 私の周りにもちろんカメラマンの人もプロアマ含めたくさんいるのですが、それと同じくらい写真と関わりのない人もいるんですね。

 これを読んでくれている写真をやる方についても、周りに写真をやらない人がいるというのは普通だと思います。今日はそのあたりについてのお話。

撮らない人

 写真を撮っていると、あらゆる意味で、あらゆる階層でものの見方が変わります。

 たとえば写真は撮るたびにピントを合わせないといけないですから、どこにピントを合わせよう、そういえば近い側の目にピントを合わせた方が後から写真を見た時に落ち着くんだよね、じゃあ近い側の目はどっちだろう、あっさっきまで左目の方が近かったのに顔を動かしたから右目の方が近くなった、というようなことを人と相対している時になんとはなしに考えたりします。

 しかし写真を撮らない人はそんなことは考えないのが当たり前でして、社会全体で見ればそういった興味がばらけているからこそ社会の糸は織られます。
 つまり全員が写真を撮ることにだけ興味を持っている社会は、他のことをする人がいないのですぐ滅びますよね。ですから興味がばらけていること自体はむしろ良いこと。

 ただ、写真を撮っていると、自分が撮っている写真に込めた「これ最高じゃん?」という部分を拾い上げて喜んでくれる人、つまり共感してくれる人が欲しくなってくるんですね。

 それが猫であったりすれば話は簡単。「ねこ! 好き!」で共感できます。

チョロいもんだぜ

 少し広げてエッチなおねいさんですね。エッチなおねいさんを「エッチですよ~」と撮れば、写真を見た人が「ああエッチなおねいさんだ、俺もエッチなおねいさんが好き」となってくれる確率が高いんであります。

 ポトレを撮る人が多いのは、ポトレを撮る側の大多数が男性で根本的に女性が好きという理由に加え、前述のように「ウケやすい」というのもあると思います。エッチなおねいさんほどあからさまでないにせよ、そういう部分は大いにある筈。

 ウケようと思ったら男性は撮らないし年がある程度行った人は撮らないですよね。私も趣味でおっさんを撮ったりはしません。撮っていて楽しいかどうか、見せて喜んでくれる人がいるかは常に問題です。

 私の場合、人物写真は一部作品として撮っているものもあるんですが、ほとんどは教材としてであったり、自分の能力開発の一環として撮っているもので、撮ったものがウケりゃ楽しいっちゃ楽しいけどウケようがウケなかろうが知ったことでない、という程度のもの。

 もし私が写真の世界の中の細分化された「なんとか業界」にどっぷり浸かっていたとすれば、その世界でウケないと面白くないでしょうし、ウケれば仕事につながることもあるでしょうからあれこれ有利なんでウケるべく方向性を考えると思いますよ。

 現実問題としては、細分化された業界にそもそも興味がないのでウケる方向にはなかなか頑張れません。どうも写真という大きな塊にしか興味がないようです。

 仕事としてはファインアート写真のプリントを買う可能性がある人と繋がっていく必要があり、クライアントになる可能性がない人に対して「どうですか! どうですかほら!」って写真を押し付けたところでお互いとくに幸せになれないですしね。そういった人がたくさんいるコロニーを探す旅の途中です。

 我ながらドライだなあと思うんですが、SNSでウケるかどうかとそれが実利につながるかどうかってあんまり関係がないんですよ。これに気づくきっかけになったのは、Facebookでの付き合いであります。

Facebookともだち

 Facebookで繋がっている友人たちの中には、写真をやらない日本人が多くおりまして、たとえば私がどこかに行ってきたよ、と写真をアップすると、その写真は別の友人が旅行に行ってスマホで撮ってきた写真と同じ扱いになるわけです。

 これは面白い現象で、私も他人がスマホで撮った写真にわざわざ質を求めたりしませんから、「よかったねータイ。海がきれいだね。あ、幸せそうに笑っててよかったね」という風に、撮られた写真よりも撮った人が幸せであったかどうか、という見方をします。

 これは人本位ということで、写真本位で見ているわけではないということ。

 たとえば雑誌にはたいがい写真が多数掲載されていますが、ファッション誌でもない限り、写真をいちいちネチネチ見るということはしないものです。雑誌で大事なのは文字の情報であり、写真そのものやレイアウトなど他の情報は文字の情報をより脳に入りやすくするように手助けするツールであって、本筋ではありません。

 ですから、私が撮ってアップした写真も、「伴さん旅行行ってきたんだね、よかったね」という見方をされてしまい、「いやこうほら……もっと写真で語り合おうぜ」みたいなところには到達できません。

 しばらくはこういったことにやきもきした部分があるのですが、考えてみればそれは私のわがままでしかなく、自分が毎日食べている料理ですら、作ってくれた人が「料理的には」という細かいテクニックを込めてくれているかもしれないのに、「おいしーい」で済ませてしまっています。奥さんが作ってくれたから嬉しい=美味しい、に近いものがあるんですね。

評価しあえる土壌が欲しい

 写真を撮っていると、そうした単純な評価だけではない、より深いところまで読み取り合える仲間というのが欲しくなってきます。うちの奥さんも、もっと詳細に料理を味わって評価できる旦那を欲しがっているかもしれません。

 しかし現状、日本ではカメラ雑誌も含め機材の話に終止しがちですよね。あとは振り切れた人文・アート系の情報。極端なんです。

 機材の話は記号の羅列と、誰でも見ればわかる解像度、あとはボケがきれいみたいな話を並べておけばそれで足りてしまうのでメーカーも各社解像度に命をかけざるを得ない状況になっていますが、あれは「派手な言葉と数字を並べないと売れない」と思い込んでいるマーケ側の都合であって、機材に限ったところで大事なのは解像だけではないと思うのですね。

 ただ、解像「だけではない」のなら何が大事なんだと聞かれると「質」と答えるしかなく、その質を理解する人間を育てるには膨大な情熱とコストが掛かります。

 私はYoutubeで、質が分かる異業種の人に写真に入ってきてよ、と勧誘活動をしておりまして、一日も早く日本で写真によるコミュニケーションがより高い質で、より広い範囲で出来るようになれば良いなあという風に考えています。
 もともと日本人はそういう土壌を持っているはずなので、難しいことではないと思うんですよね。

 というわけで、また。


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