自分で考える写真の撮り方


 写真を色んな場で教えていてよく思うことがあります。

 Youtubeなんかの場合は、最終的に耳目を集め、再生数を伸ばしてお金を得るのが目的であることが多いので、「これだけやれば!」みたいな断言系タイトルを付けることが多く、インターネット黎明期の紙文化をそのまま受け継いでいた頃の控えめなタイトルと比べると、まあずいぶん下品になったものだと思います。

 あれに無自覚に乗っていける感性というのが私からするとそもそも理解できないのですが、社会のあれこれを安いハックで乗り切って行けると信じる若い子ならまだしも、良い年のおっさんまでそれの真似っこをするのはちょっとなあ、と思いつつ、あれタイトルで惹きつけられちゃう人も多いから一旦やるとやめられないんでしょうね。

 私はその流れに乗らず粛々とやっていくだけなのですが、あまり守旧すぎると旧仮名遣いの人みたいになっちゃうので、まあじわじわバランスは取り続けるしかないでしょうね。

極の提示

 断言系のタイトルを付ける人がどういう層をターゲットにしているかというと、要は自分で決められない人なんですね。

 自分で決められないのに写真なんか撮れるわけないじゃんと私なんかは思うんですが、そのあたりが日本で写真とカメラいじりを混同する人が多い理由のひとつなのかもしれません。混同しなきゃどちらも楽しいので良いんですが、日本は商売する人の都合であえて曖昧にしているものがたくさんありまして、そこに写真を学ぼうとする人を巻き込んで行くのは不誠実だなあと思います。

 誠実に言うのであれば、迷うのが当たり前で、どれだけ慣れようがプロになろうが迷う部分は絶対に残ります。むしろ迷わない方がやばいと思った方が良いでしょう。

 私の場合、どういう風にそのあたりを捉えているかというと、ほとんどのYoutube視聴者およびリアルでの生徒さんは30~50代の男性、つまりおっさんなんですね。
 おっさんであれば、皆さんそれぞれ本業でやっているお仕事があるでしょうから、それぞれの仕事で学んできた技術と照らし合わせて、写真も似たようなもんだぜ、というのをベースにしています。

 世の中には色々な技術があり、自分でその技術を学びながらじっくり中身を精査していくと、結局はバランスをどこで取るか問題に帰結することが多いと思うんですね。

 何も特定の技術に限らずとも、人生にはバランスを取らざるを得ないことがたくさんあります。仕事と私、どっちが大事? であるとか、そういったことですね。

 写真もご多分に漏れず、たとえばレンズに内蔵されている絞りを絞ると、ピントを合わせた部分だけではなく、その前後もはっきり見えるようになりますが、前後がはっきり見えるようになるということは情報量が増えてしまうわけで、ピントを合わせた部分だけが「ぽっ」と浮き上がったように見えることはなくなります。

 かといって、絞りをまったく絞らなければ良いかというと、それはそれで情報量が減ってしまうので、「それがどういう状況にあったのか」は分からなくなっていきます。

 結局は「被写体だけが浮き上がって見える」「どういう状況に置かれていたかも分かる」のふたつの極の間を、絞りというパラメーターを増減させることでバランスを取るわけです。ちょうど良いところで止められる人がすなわち上手い人なんですが、それは常に同じ数値になるわけではありません。撮影状況により変化しますし、個性にもつながってくるので一概にこうしろとは教えられません。

決めて欲しい人

 写真がややこしいのは、先述の絞りの数値を変更すると、他のパラメーターも一緒に動かさなければならないことが多く、たしかに混乱しがちではあるんですね。

 ただ、あらゆる芸事が同じであるように、たとえば腕を動かせば、そこに連なる関節や筋肉が一緒に動くわけで、コンピューターの中でシミュレーションするような現実と一旦切り離した世界でもない限り、一つのパラメーターだけを純粋に動かせることの方が珍しいんであります。

 連動しちゃうパラメーターを決めるのってなかなか難しく、だから写真は初心者のうちに学ぶ絞り、感度、シャッタースピードの理解でつまづきやすく、しかもそういった連動パラメーターは初心者領域を終えたあともどんどん追加されていきます。それが楽しいと思う人は写真に向いているでしょうね。あやふやなところにピシッと自分のラインを引いて地図を描くような面白みがあります。

 逆に、決められない人は「どの絞り値で撮ったら良いんですか!?」みたいに、いきなり回答を求めてくることが多いのですが、教える側としてはそこで誠実さが問われると思うんですね。短期的に得した気にさせたいか、長期的に得させたいか。

 皆さんお察しの通り、短期的に得した気分になってもらいたければ、「これさえやっておけば」的な断言系のタイトルを付けるでしょうね。ハック的ということも出来るでしょう。

 これは、特定の人たちにとってはいきなり答えを教えてくれるので親切なわけですが、私からすると「そんなもんは極を提示しているんだから自分で考えろや」なんですね。むしろ極を教えてくれる人の方が少ないんだから俺の方が親切じゃん、と思っています。

 たとえば花をクローズアップで撮る時、いちおうパラメーター化して頭の中で考えている部分はあります。
 まあ標準域か中望遠くらいの画角ならF2.8基準で考えて、あとは後ろに写るものの距離、ごちゃごちゃ具合、環境の明るさによって感度とシャッタースピードがどれくらい楽に設定できるかどうか。などなど。

 これらすべて絞りと同じようにスライダー的なパラメーターですから、ひとつ動かせば別のパラメーターにも影響が出ます。

 大事なのは、写真を勉強している人がそういったパラメーターを個別に認識し、かつ総括的にコントロールできる人になるかどうかであって、「先生がF2.8で撮れば大丈夫って言ったからF2.8で!」と楽になれるように決定してあげることではありません。

 自分でそれを導き出せる人じゃないと自分の写真なんて撮れませんからね。

 逆にいえば、その人の写真というのは、その人がどう個別のパラメーターを理解し、どうバランスを取り、それを全体に繋げるかであって、なにか一つをかんたんに解決してあげたからといって、本当の意味で役に立つことはないのです。

役に立たない教材

 ですから、わたくしVimeoというサイトで有料の写真教材動画をあれこれ売っておりますが、

  • 練習したくない
  • 楽に最短距離を行きたい
  • ズバリの回答を教えてほしい

 こういった人にはまったく役に立たない教材ばかりです。

 代わりにほとんどの動画で、「極がこことここにあり、パラメーターを動かすとこう変化するので、どこでストップするかは自分で決めてくれ」というふうに極を摘示しているつもりなので、自分で考えたい人には最適の筈です。

この動画なんかモロにそういうスタイルです。

社会

 Twitterなんかで毎日起きる種々の揉め事を見ておりますと、どこの大学を出ているとか、どういった素晴らしい職に就いているとか、そういったことは全然関係なく、上記のような押し引きのパラメーターが連動して世の中のたいがいのことが動いていることを無視して、ゼロか100かで判断したがる人というのが多いですね。まあそんなんだから揉めるんであります。

 写真が面白いのは、撮ったものが記録されちゃうという側面だけではなく、一枚の写真を撮るためにパラメーターがたくさんあり、それぞれのバランスを自分で丁寧に、時に大胆に決定していく現場監督的な側面も大きいんです。

 バランスを決定するということは言い換えると何かを優先し、何かを後回しにするということでもあり、毎日そればかりやっている人間からすると、社会の中でこれさえあればOK、これさえやれば全てうまく行く的なことを言う人は殆どの場合、考えが足りないか、大衆を扇動しようとする危険な活動家にしか見えません。

 バランスバランスばっかり言っていると俺はものが分かっているんだよ風な風見鶏おじさんに見えちゃうので、それはそれでアレだなとも思いますが、大事なのは極がどこにあり、パラメーターを動かしていった時にどういう変化が起こるかを理解すること、そしてその中でどういう理由をもってどこに決定するかという意思です。

 日本社会で情報を扱う人の中に、こういうスタイルがもっと増えてくれたら報道ももっと客観的になって良いのになあ、と願ってやみません。

 それではまた。


1 thought on “自分で考える写真の撮り方

  1. 三万五千分の一 says:

    こんにちは
    運動会で足がもつれて転倒するように
    写真撮影でもパラメーターが連動せず転倒する。
    そんな感じです。

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