台風一過でお盆


 こんにちは。今日は8月14日。昨夜は台風8号が関東上空を走り抜けていきました。
 世間はお盆休みの真っ只中でありまして、都内は毎年お盆の時期になるとごっそり人が減って快適と言われておりますね。都心ほど人が減るのですが、西東京市内は通勤、通学する人がちょっと減っただけで他は大差ないかな。

 私は年中休みなどないタイプの貧乏暇なしフリーランスなので、お盆休みを設定してどこかへ行くようなこともなく、毎日スタジオに出勤して普段と変わらない暮らしをしています。このスタイルの生活に入ってもう10年以上経つのがちょっと不思議。好きなことを仕事にしており、可能な限りストレスを減らすようにしているので、別に改めてバケーションに行かなくてもなあ、という気持ちですし、皆で同じ時期に休みを取ってどこかへ行こうとすると混みますからね。

 2022年8月現在はコロナの影響もまだまだ大きいので、下手にみんなと同じ時期に動いて事故に遭って救急に担ぎ込まれて地域の医療リソースを圧迫、みたいなことをしてもいけません。私みたいに休みのタイミングを自由に動かせる人間が会社員や学生みたいにタイミングがずらせないご家庭に譲ったほうが良いですし、2年以上青春が潰れてしまっている若い子たちに遊んでもらいたい気持ちもあります。

台風一過の第一モアレビル

盂蘭盆会

 Twitterではお坊さんたちが「お盆あるある」みたいな形で宗教家たる自分たちの活動にポップなところから興味をもってもらうという活動をされておりますが、やっぱり時代にグイグイ求められる職業かどうかって如実に表れますね。過去に強く求められたけど現在はそうでも……みたいな職種は辛いな、と思わされます。だからこそもがいておられるのがよく伝わってきます。

 特に宗教は形式として成立しているもの、それが社会に認知されている姿と、実際の機能がそれぞれずれているので、中の人たちは大変なんじゃないでしょうか。

 つまり宗教って何? 宗教家ってどういう仕事? というのが世間から忘れられがちです。
 たとえば世の中で事件があった時、宗教家はそれに対して何を説くのか、と意見を求められる機会じたいが大分減っていますよね。それはすなわちプレゼンスが低下しているということで、現在の日本仏教は残念ながら葬式とそれに付随する行事の際に出てきてもらう専門家、というポジションです。

 人が人として生きる中で何を求め、誰に救いを求めるのかの問い合わせ先として、昔は独自の知恵の体系を持っている宗教が大きな存在だったのですが、現代は情報にアクセスするのが簡単なのでなかなか競合に太刀打ち出来ませんし、僧侶の皆さん自身が儀式の専門家であることに立ち位置を決めてしまいがちです。

 これはイメージでそう言っているわけではなく、実際に色々な宗教家の方とお会いする度に、ちょっと失礼かもしれないですがと前置きしつつ、社会におけるあなたの仕事の意義をどう説明されますか? という形で質問させてもらっているのですが、まず間違いなく宗教家としての立ち位置ではなく、葬儀や法事のスペシャリストを世襲でやっています、という立ち位置からの回答ばかりなのです。

 これはほとんどが世襲で「そういうもの」として育ってきたこと、世間から「お寺さん」というシステム以外に期待されないことなどなど、僧侶の方の側だけの問題でなく、世間との関係の中で一般的な日本仏教は宗教的な能力を認知されず、また発揮できないところがあるので、特定の誰の責任ということでもないのでしょうが、歴史の上で日本仏教が果たしてきた役割、時には政治にすら手を突っ込んでグラグラ揺さぶってきたパワフルさと比べると、現代の仏教はつましいものだなと思います。やっぱり檀家制が悪いんでしょうか。

仕事として

 ここであえて宗教家だけを特別視せず、世の中の仕事全般と等しく眺めてみると、結局仕事というものは誰かが何かを求めるのに呼応する形で存在するわけで、じゃあ宗教および宗教家は一体何を求められ、それに対してどういうソリューションを持っているのか、というのが気になります。

 写真の世界で例えるなら営業写真が写真を売っているのではなく撮影体験というサービスを売っているように、宗教家自身が「これを求めて寺に来てほしい」と考えていることと、寺を訪れる人の間でズレが生じている可能性は大いにあります。

 大きな宗派になると、ちゃんとWEBサイトを持っていてトップページから大きくてきれいな言葉が書き連ねられたりしているのですが、ほとんどの場合それらはよそゆきの文言かつ彼らが世間に伝えたいことであって、個人対個人の場で何が求められ、どう考えて何を返しているのかとはほとんど関係がないんじゃないでしょうか。

 私も自分の写真を撮る仕事を社会全般に説明するなら「顧客が頭の中に持っている像をビジュアライズして社会に投げかける」みたいな、マンションポエムじみた言葉になってしまいます。ひいてはクライアントだけでなく、どういう写真を作って投げかけるかが社会の姿形に影響を与える可能性すら大いにありますから、ただ写真を撮る作業だけでは済みません。

 しかし、個人対個人であればもっと細かい話が出来るようになるので、相手によっては「儲かる写真を撮ります」くらいまで肌に近い言葉に落とし込むことが可能になるわけで、宗教も本当はそういうレベルで話をした方が面白いのだろうなと思います。

 もちろん使う言葉は対象によって選ぶべきで、私がさっきの「儲かる写真を撮ります」で想定しているクライアントは中小企業のタコ社長みたいなイメージですが、これがもっとふわふわした実像のないものを好むタイプの人がクライアントであれば、より現実的でない言葉を選んだ方がウケるとは思います。恐らく日本仏教は立場が大きすぎるので、ほとんどの場で後者を選択せざるを得ないんでしょうね。

 そういう面から考えてみると、カルト的な新興宗教の方が「これが得られます!」と嘘であっても現世利益を無責任に約束してしまえるのでファストフード的な飛びつきやすさがあり、伝統的な宗教の方が慎みを知っているので選択されにくい面もありそうです。団体が大きくなればなるほど、歴史が長くなればなるほど派手なことは(少なくとも表だっては)出来なくなります。そうすると個人のハートになかなか刺さりません。要はつまらないんです。難しいもんですね。

 だからこそ最終的に、個別の和尚さんが個人を相手にどういう説法をするのかの個人の解釈が大事になってくるでしょうし、だからこそ仏教は恐ろしい勢いで分派してきたのかもしれません。

求められなくてもやる

 宗教と一般的な仕事の最大の違いは、宗教家であってもほとんどの場合は食えなければ廃業するので「求められて初めて仕事がスタートする」という点では一緒であるものの、一部に「儲からなくてもやる」「食えなくてもやる」人がいて、さらにはそれこそが宗教家の立場と認知されているところかなと思います。

 逆にいえば「儲かるからやる」と言われては宗教家が最大の武器とする聖属性がなくなってしまうわけで、そこを求められるかどうかが宗教家とそれ以外の最大の違いだろうなと思いますし、だからこそ世襲で家業として宗教家をやっています、と言われると、あなたの信念がその宗教活動のどこかにあるのを拝見する機会はあるでしょうか? と疑いの目を持ってしまう私のような人間が増えるのかもしれません。

 写真でいえばカメラマンはギャラがないと動けませんが、写真家はむしろ払ってでも撮らせてくれ! というスタイルですから、そのあたり社会から職業としてどう認知されているかの違いでしょうね。カメラマンと写真家の違いがそこまで明確に認知されているとは思いませんが、作業の比率が高いカメラマン仕事と、やりたくてやっている感が強い写真家では認知のされ方が違うのは間違いありません。

 とりあえずどんな職業でも、仕事の結果が生まれた際に「ああ良いもんだな」と思われて初めて価値が生まれますから、その点だけ忘れないように頑張りましょう……。

 というわけでまた。


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